Nature is where happiness is~自然は幸せの在処~

「ひとりひとりが、主体的に自然と関わり合う社会」をめざし、ナチュラルでサステナブルで、刺激的な日々を過ごす日記。

No1.”夜と霧”

夜と霧

”生きている実感がしない….”

自分の中でうんざりするほど繰り返される疑問のヒントを得るために、言わずと知れた名著、”夜と霧”を読んでみた。原本の副題は『ある心理学者の強制収容所体験』。ホロコーストによりナチス強制収容所に囚われた、精神医学家のフランクルが、極限下の人々の行動を、心理学の立場から解明しようとする著作である。地獄のような現実を強いられた人々が、どのようなことを思い、現実と向かいあったのかがとても気になって、読んでみることにした…..

http://img.eiga.k-img.com/images/buzz/51155/viktorfrankl_large.jpg △著者ヴィクトール・フランクルオーストリアで生まれ、アドラーフロイトに師事し、精神医学を学ぶ

ページをめくるごとに、絶望的な状況の描写が続いてゆく。

収容所に入る直前に、人々は、自身の”名前”から身分証明書を含む、全財産を奪われる。唯一与えられるのは、被収容者番号のみ。その番号のほかに他者と区別するものはない。

”収容所の1日は一週間よりも長い”

凍傷になりかねない極寒の作業場で、12時間以上の労働を強いられる毎日。過酷な労働とは裏腹に、与えられるのは粗末なパンと水のようなスープのみであり、そのために極度の栄養失調に陥り、生命が自らのタンパク質を食いつぶす、飢餓浮腫が体を蝕む。しかしながら、使い物にならない者には不条理な暴力と死が待ち受けているため、恐怖心に駆り立てられながら、棒のような四肢を無理矢理動かし、働く。

収容所の生活は、肉体的な苦痛と共に、人々の精神を徐々に徐々に蝕んでゆく。

フランクルは、強制収容所の中での生活を強いられる人々のことを”無期限の暫定的存在”と例えた。これは、収容所からの解放がいつ訪れるのか、また、いつ自分に死が訪れるのかを知ることができない状態を意味する。言うなれば、死刑宣告を待つ囚人のような状況である。そんな絶望的な状況では、人間は未来や未来の目的を見据えて行動することができなくなる。この絶対的な未来喪失は、人間を”生きる屍”と変容させ、今ある現実の意味を無価値にする。その結果、自身の内面で過去の生活にしがみつき、今という現実から心を閉ざす方が、むしろ得策なのではないのか、とたかをくくるのだ。

フランクルは、過去の追憶の中に自分をのめり込ませることを始めた人間が、崩壊することに気づいた。端的に、生きることをやめるのだ。

このような極限の状況下で、どのような人間が生き残ったのだろうか?

フランクルは、ニーチェの言葉を引用する。

”「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」”

フランクルを生き延びさせたのは、ここから生還をして、心理学者として、収容所の状況を世界に伝える使命であった。しかしながら、彼のように、未来への使命を持ち続けることのできた人間は、多くはない。極限の状況下で、”無期限の死刑宣告”の状況下で、生きていることにもう何も期待が持てない人が多いことも事実だ。彼らに対して、どのような言葉をかけたのだろうか?

“ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。私たちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ…ここにいう生きることとは決して漠然とした何かではなく、常に具体的な何かに出会って、したがって生きることが私たちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、一人一人に立った一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ….全ての状況はたった一度の、二つと無い仕方で現象するのであり、その度に問いに対するたったひとつの、二つと無い正しい答えだけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙にたった一度だけ課される責務としなければならないだろう。”

彼は続ける。

”誰もその人から苦しみを取り除くことはできない。誰もその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、二つと無いなにかを成し遂げるたった一度の可能性はあるのだ。”

この言葉に胸を打たれた。

運命とは、その人間の前にしか現れない。

誰もその人間になって、運命と対峙することはできない。

その運命と対峙することは、苦しみを伴う。しかしながら、その運命を受け入れることで、この世に二つと無いなにかを達成できる可能性があるのだ、と彼は明確に述べた。他でもない、彼がその何かを成し遂げた人物なのである。

この地獄とも言える時代と、現在を比べることは到底無理なことであるが、今の時代を生きる私たちにも、フランクルの教訓は、多くの示唆を与えてくれるのではないだろうか?

かくいう私も、”生きている実感がしない”などと、今の自分の生、運命を否定するように思うことは金輪際やめよう。そして、私の運命が持つ何かを成し遂げる可能性に、もっと真剣に向き合うべきだ、と思うようになった。

夜と霧 新版

夜と霧 新版